アーティスト名 オフコース

この番組でもお世話になっている小田和正さんと鈴木康博さんが中心となって結成さ
れ、自分達の姿勢を崩さずに70年代、80年代に走り続けたオフコース。
時代の流れの中で実は何度も厳しい状況にあいながらも、
コンサートを大切にし、音楽一筋にこだわりながら自分達のペースで
活動を続けてきたようです。

小田和正、鈴木康博が出会ったのは、横浜の小学校。
幼馴染み(?!)の二人は高校時代にフォークグループを始める。
受験校で有名だったその高校では学園祭などで演奏したそう。
そしてそれぞれが大学に進学。
東京と仙台(小田さん)に別れながらも、お休みになると会い、
練習をしていた。
(その後 小田さんは早稲田大学大学院にも進み、修士課程を卒業。
すごい。。。)


1969年オフコース結成。(大学4年)
ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場し(小田&鈴木&地主道夫)、
ニ位に入賞!
(因に一位は<赤い鳥>〜後ハイファイセットや紙ふうせんを結成。
山本潤子さんも在籍していた、<翼をください>の名曲を生んだグループ)

70年4月5日<群衆の中で>でデビュー。
しかしこの曲の作詞は山上路夫、作曲はヤマハのコンクール入賞曲。
なかなか自分達の思う通りのデビューではなかったようだ。
71年地主が脱退し、二人での活動。

73年2月オリジナルの曲<僕の贈り物>6月同名のアルバムを発売。

強力な力添えがあるわけでもなく、叙情的な初期のオフコースは
なかなか大衆に認められなかった。
(今はコンサートでお茶目な部分も見えるMCをしてくれる小田さんだが、
当時はほとんど喋ることもなく音楽のみで勝負!
これは当時のフォークシンガーが求められていた喋りの達者さとも反したようだ)

なかなか仕事のない状況に一時は音楽活動を辞めようと思ったこともあったとか。
そんな中75年から76年にかけて東京日本青年館で、<オフコースの小さな部屋>
というコンサートを行う。
このコンサートをはじめとして オフコースはマイペースでコンサート活動を続けた。

76年大間ジロー、そして松尾一彦、清水仁が加入。
(余談ですが。。。松尾さんは93年の斉藤和義さんのデビューから4枚のアルバム
のアレンジャー、ミュージシャンとして参加していますね。
<僕の見たビートルズはTVの中>では清水さんもベースで参加)

(因に三人が正式にオフコースの一員となったのは79年。
この年リリースされたアルバムのタイトルは<Theree and Two>
そして80年には<We are>をリリース。しゃれた ステキタイトルである。)
79年、バンドとしての魅力も増したオフコースは、
シングル<さよなら><Yes-No>が大ヒット。

1982年武道館10間連続コンサート行う。
往復ハガキでの応募総数は52万通だったそうだ。
しかし、この年鈴木康博が脱退。活動を一時休止する。

オフコースを知ったばかりのファンにとってはこの音の聴けない二年間が
更にオフコースへの思いを高めた時間だったのではないでしょうか?
4人になったオフコースは
84年にシングル<君が、嘘を、ついた>で活動再開。
三年ぶりの全国ツアーも行い、オフコースとしての活動を続けるが。。。

1989年2月26日、東京ドーム『The Night with Us』公演を最後に、
解散。前年から続いていた85ケ所102公演の途中で発表され、
武道館での追加公演も2/1〜3に行われたが、
この公演とは別の内容で5万4千人を集めてのラストライブを行った。
オフコースとしての20年の歴史だった。

解散後の小田さんの最初の活動は。。。
鈴木雅之さんの<別れの街>(シングル)のプロデュースだった。
そしてこの年の10月にはソロとしてのシングル<Little Tokyo>を発表する。

オフコースとしての活動は20年。
この70年代、80年代の二十年はとても長く、大きなものだろう。
デビューした頃の日本の音楽シーンは
四畳半フォークの流れから和風のもの、そして反体制が主流であった。
そんな中で歌謡曲中心のチャートでは吉田拓郎がトップを飾り、
日本語ロックのはじまりであるはっぴいえんどもデビュー。
そして四畳半フォークから生活臭を消した都会的な音楽を作り上げた荒井由実のデビ
ューした70年代はじめ。
そのどれとも違った色の流れを作り上げたのがオフコース。

美しいハーモニーにメロディ。そして叙情的な詩。
音と音との間の色。
今、改めて聴くと、大人になったからこそ、その魅力を感じられる人も多いのではな
いでしょうか?
(<生まれ来る子供達のために(<Theree and Two>収録)>を聴くと、
金八先生を思い出す。。。確か挿入歌だった。ああ、良い曲だ)